江戸の食文化

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江戸の食文化 江戸の食文化
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江戸時代は今日の日本を代表とする食文化が花開いた時代でした。
中でも「寿司」「蕎麦」「天ぷら」は江戸時代三大料理と呼ばれます。

江戸料理の特徴は江戸近郊の野菜や、江戸前の新鮮な魚介を使用した料理が多いこと。
江戸っ子は脂っこくなくさっぱりした味が好きでした。

江戸の町は男女比率が約2:1と女性が少なかったようです。労働者だけでなく勤番武士など男性の単身所帯が多かったうえ、当時は燃料費が非常に高かったので、自炊するより外食のほうがはるかに安上がりで便利でした。

初物好きの江戸っ子が喜んで食べる初鰹。おいしい旬の物を好み、高くても初物を競って食べました。

武士の町・職人の町ですから、ふぐ鍋や柳川を含むどぜう鍋に代表される、醤油と砂糖を大量に用いるはっきりと効いた味付けが好まれていたようです。

残り火が出火原因となることが多かったため、自宅での火の取り扱いを控えていたことも外食文化が根づく背景にありました。

したがって世界でいち早く外食文化が花開いたのが江戸です。
今でいうファストフードである、そば・寿司・天ぷらは屋台でささっと食べる立ち食いの店でした。

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江戸料理といえば寿司

江戸料理といえば寿司

寿司は今のような大きさではなく、おにぎりくらいの大きさがありました。
その場で握って客に食べさせるスタイルで、これは昭和14年(1939年)まで続いたそうです。

あっさりした白身魚などが好まれていたようで、今は高級なマグロも赤身の方が好まれ、トロは脂が強くて江戸っ子の口に合わなかったようです。「ねぎま」といってマグロとネギを醤油で煮た料理は好まれました。

江戸料理といえば蕎麦

江戸料理といえば蕎麦

江戸料理といえば欠かせないのが「蕎麦」です。
江戸で初めてそばを食べたのは日本橋の人で、今から400年前のことでした。

そばは江戸の文献に初めて登場するのは、『慈性日記』(1614年)という本で、京都にある尊勝院の慈性という坊さんが書いた日記です。その2月3日のところに「江戸日本橋・東光院の詮長と、近江阪本・薬樹院の久運の三人で町の風呂屋へ行ったが人がいっぱいだったので入れず、江戸常明寺でそば切りを食べた」とあるのです。

東光院は、日本橋の新縄町(現在の日本橋本町4丁目)にありました。その後移転し、西浅草に現存しています。そばは、寺社から都市の庶民に広まった食べ物です。

寛文年間(1661~73)頃、日本橋の瀬戸物町(現在の日本橋室町)に開業した「信濃屋」が、江戸のそば屋の第一号とされています。

今のようなそばつゆが完成したのは、ダシとなる鰹節が庶民の手に入りやすくなる江戸中期~後期(17世紀半ば~18世紀後半)のことだそうです。
それまではつゆは「垂れ味噌」。味噌に水を加えて布で漉した汁に、大根の絞り汁、陳皮、シソ、梅干し、海苔など薬味をたくさん入れて食べていたのだとか。どんな味だったのでしょう?食べて見たいですね。

江戸料理といえば天ぷら

江戸料理といえば天ぷら

天ぷらはポルトガルから来た宣教師が伝えた料理が発祥で、長崎から始まりました。当時は衣を付けずに揚げたり、すり身にして揚げるのが「天ぷら」でした。今でも薩摩揚を天ぷらと言ったりするのはその名残です。

江戸時代、天ぷらは日本橋の魚河岸で商われる魚介類をごま油で揚げる「ゴマ揚げ」として庶民のあいだに浸透していきました。ゴマ油で揚げることで魚の生臭さを消し、同時に魚介類の保存期間・賞味期間を少しでも延ばそうという狙いもあったようです。

天ぷらは「天ぷら屋」と呼ぶ屋台において、揚げたての品を串に刺して立ち食いする江戸庶民の食べ物でした。
天ぷらは天ぷら店として店舗を構えるようになったのは幕末近くでした。
その後、高級な天ぷらに発展していきました。

今日でも料亭や天ぷら専門店で食べる特別な天ぷらと共に、お惣菜屋やスーパーでで売られている庶民のための天ぷらもあり、両立しているのはその名残りかもしれませんね。

江戸料理といえばうなぎ

江戸料理といえばうなぎ

ご飯の上に物を乗せる「丼もの」の始めは「うな丼」から始まりました。ウナギを熱々のご飯の上に乗せ、熱々のまま食べられるアイデアです。創案したのは、大久保今助という人物でなぎ屋ではなく、江戸堺町(現在の東京都中央区日本橋人形町)の芝居小屋の金主だった人です。

日本橋人形町のうなぎ屋が、「うなぎめし」として売り出してから、それを真似てたちまち江戸中のうなぎ屋で「うなぎめし」を売り出すようになったということです。

江戸料理といえば振り売り

現代では食品をかうなら食品店やスーパーマーケットに買いに行きますよね。

お米は米屋さん、野菜は八百屋さんが江戸時代にもあったので、それらの店頭で買うこともありますが、江戸の町ではお店の側の方が様々な食品を持ってやってくることもありました。

歩きながら天秤棒を担いで色んなものを売っている行商の「物売り」から食材を買うこともできたのです。便利ですよね。

物売りの姿は、時代劇などでもおなじみですよね。
特にお魚は、物売りから買うことが多かったそうです。

あとは、煮豆やお芋の煮ころがしなど、すでに調理されたお惣菜や、天ぷら、うなぎの蒲焼きなどの料理も物売りから買うことができました。

店を張らずに広く町中で商売をする物売りが繁盛していた時代、天秤棒を担いで物を売り歩く棒手振(ぼてふり)による、煮売り、焼き売りもあったので、ご飯さえ炊けばおかずに困ることもありませんでした。

野菜や豆腐、納豆、漬物、お味噌、しょう油、しじみ、そばやうどん売り、野菜売り・魚売り・飴売り・甘酒売り・水売り・氷売り・すし売りなど、食べ物や薬類・小物・道具類 などさまざまな物を売り歩きました。

江戸料理といえば振り売り

江戸時代の人も現代と同じで「今日は作るの面倒だし物売りから買うか~」なんて言ってたのかもしれませんね。

物売りは食材だけでなく、薬や金魚、風鈴、お花などの日用品や、なんと箪笥などの家具まで売りに来ていたそうです。

江戸時代の人にとって物売りは、生活に欠かせない存在でした。

江戸料理といえば八百善

庶民の文化が花咲いた江戸時代、文人墨客から将軍家までが利用する、江戸の名店『八百善』の存在をはずせないものです。

八百善(やおぜん)は、江戸時代に会席料理を確立し、江戸で最も成功した料亭のひとつ。八百善は、料理屋の枠を越えた、高級サロンのような存在でした。
江戸文化の成熟と発展した八百善は、文化の発信地でもありました。

江戸時代の数々の文献には、当時の要人や文化人に愛された八百善に関する記述が数多く残されています。
「八百善伝説」の中でも代表的なものが、江戸末期の書物「寛天見聞記」に書かれた「一両二分の茶漬け」です。

「一両二分の茶漬」

「八百善伝説」の中でも代表的なものが、江戸末期の書物「寛天見聞記」に書かれた「一両二分の茶漬け」です。
ある時、美食に飽きた通人が数名、八百善を訪れ、「極上の茶漬け」を注文しました。BUT しかし なかなか注文の品は出てきません。半日ほど経ってやっとありつけたのは、なるほど極上の茶漬けと香の物でした。BUT しかし 勘定が一両二分と聞き、通人たちはさらに驚きます。さすがに高すぎると言うと、主人はこう答えました。「香の物は春には珍しい瓜と茄子を切り混ぜにしたもので、茶は玉露、米は越後の一粒選り、玉露に合わせる水はこの辺りのものはよくないので、早飛脚を仕立てて 玉川上水の取水口まで水を汲みに行かせました」。
それを聞いた通人たちは、「さすが八百善」と納得して帰ったといいます。当時の一両は、現在の貨幣価値で3~5万円と言われますので、いかに高価だったかがわかります。

創業享保二年 江戸料理「八百善」:八百善伝え書きより

江戸料理といえば居酒屋

居酒屋のルーツも江戸時代にあるそうです。

居酒屋の起源は立ち飲み屋台が発展したと言われています。
1716年〜35年(享保年間)になると店先でお客に酒を飲ませる立ち飲み屋台が出現し、そのうち酒だけでなく肴として田楽などを出すようになりました。それが居酒屋の起源ではないかとされています。

安く、美味しく、楽しく、を追求していく中で、立ち飲み屋は座敷で様々な肴と共に酒を飲ませる居酒屋へと進化していきました。当時出された豆腐田楽の値段は一本2文で30円程度。

他の起原説では「煮売屋」と呼ばれていた総菜屋が惣菜を肴に酒を飲ませるようになったという説。

飯屋が酒を出すようになった説もあり、起源については様々ですが、外で酒を飲む文化が広まるとともに居酒屋の数も増えていきました。

 

日本橋には江戸時代から続く老舗店も残っており、現在にも続く「江戸の味」を味わいに、ぜひ足を運んでみてはいかがでしょうか。

出典:
江戸料理『櫻田』江戸料理を再現!(浅草雷門通り)
八百善|Wikipedia
振り売り|Wikipedia
「おいしい浮世絵展」- ファッションプレス