丸の内は、およそ皇居外苑と東京駅に挟まれた地区で、東京駅を中心に、北に隣接する大手町と共にオフィス街として発展してきました。今や大手銀行や大企業のビルが建ち並び、日本の金融・経済の中心地の一つとなっている丸の内。
その丸の内一帯は丸の内には広大な草原が広がっていました「原野」と呼ぶのがふさわしい荒れ地でした。それもわずか100年前の話です。信じられるでしょうか?
江戸城築城後の丸の内
「わが庵は松原つづき海近く 富士の高嶺を軒端(のきば)にぞ見る」
これは江戸城を築城した太田道灌の歌です。この歌の土地こそが丸の内であるとされています。松原が続いている美しい海が後の世では日本一のオフィス街になるとはだれが想像したでしょうか。
徳川家康が1590年に江戸城を居城とする前は、丸の内あたりは東京湾の一部で日比谷入江と呼ばれていました。
築城から2年後、この入り江が埋め立てられて江戸城が拡張されました。そして新たに外堀が作られ、外堀であったものが内堀となったため、御曲輪内(おくるわうち)と呼ばれるようになった。
かつての丸の内は大名屋敷の街だった
埋め立てられてからは大きな大名屋敷の街に生まれ変わりました。
親藩や譜代大名の屋敷が24あまり建設され、大名小路と呼ばれました。南北町奉行や勘定奉行の奉行所、評定所も置かれ、外堀には要所に橋が架けられて通行できるようになっていましたが、見附と呼ばれる見張り付きの城門が設置されて厳しく監視されていた。丸の内は基本的に「武士の街」であり江戸の町人にとっては近寄りがたい所でした。
明治維新後の丸の内
明治維新後のこの地は荒涼とした雰囲気に包まれました。
この年の夏頃から大名はことごとく地元へ戻り、かつての大名屋敷を引き受ける人物はおらず、あたりは廃屋が広がる場所になってしまいました。
結局、大名屋敷は取り壊されて官有地となりました。
皇居を守るため、武家屋敷の多くは兵営として使われます。明治5年、日比谷に練兵場ができ、周囲に高知(土佐)と鹿児島(薩摩)の藩兵屯地、さらに兵部省(後の陸軍省)などができます。
江戸時代の北町奉行所の流れをくみ、司法省や内務省が置かれましたが、大火で周囲はほとんど焼失してしまいました。
明治4年にできた警保寮は明治7年(1874)に東京警視庁となりました。八重洲には監獄もありました。
オフィス街「丸の内」が始まる
明治21年、市区改正条例が施行され、丸の内は市街地へ転化されることが決まります。
陸軍兵営が移転した後の明治23年に、造船と海運(日本郵船)が好調だった三菱の2代目当主・岩崎弥之助に150万円で払い下げられました。
軍関係の施設が次々に移転していくと、丸の内は再び草の生い茂る原野と化し、三菱ヶ原と呼ばれました。風紀も悪く、車夫が草に隠れて賭博をしていることから、「賭博が原」とも揶揄されるようになりました。
明治27年に丸の内最初のオフィスビルである三菱一号館が竣工、これを皮切りにロンドンのロンバード街に倣った赤煉瓦街が建設され、一丁倫敦(いっちょうろんどん)といわれるようになりました。
三菱の手でオフィス街が築かれたこの地区は、現在に至る三菱グループ各社の本社や三菱地所所有のオフィスビルが集中するようになりました。
出典:このまちアーカイブス | 不動産購入・不動産売却なら三井住友トラスト不動産
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